備忘録

哲学、文学、その他雑記。学習用。

精神分析入門 第二章 夢① 

神経症研究、精神分析に於いて夢は分析対象となりうる。

第1章の錯誤行為と同様に軽視されているが、錯誤行為は何か言い違いするだけの意図を明確に論証することができるように夢の分析、解釈にも価値があるということを説明しなければならない。

まず第1に我々の見る一切の夢に共通な第1の点は、夢を見るときには我々は眠っているという事実。眠っているときには外界について何も知ろうとは思わないし、関心は外界から引き上げられている状態になっている。人生の3分の1の間この眠っている状態を温かく穏やかで刺激のない母胎にいる状態だと比喩するならば、この間に夢を見るということはむしろ歓迎されない附属物のようにみえる。つまり夢は覚醒時の心的活動の残滓であって、眠りを妨げるものである。

第2に、その刺激は主とし視覚像として体験され、感情が伴っていたり、思想がその中を貫いていたりする場合もある。このカオスな視覚像を言語に翻訳することは難しく、覚醒時の心的活動とは違った心的特殊性を持つ。

このような夢の多様性を解明するために、この多様性は眠りの不完全さの様々な中間段階に対応するものだと仮定する事ができるかもしれない。

実験心理学では眠っている間に与えられた刺激が夢に現れる事を証明している。たとえば目覚まし時計の音が、各人の中で様々なイメージと音を伴って現れてくる。

しかしこの現象は頻繁に起こりうるものなのか、確証を得るには至らず、一部分を説明できるにとどまり反応としての夢すべてを証明することはできない。

しかし肉体的なつまり内的な刺激も同じ役割をすることがあることを承認しなければならない。

夢は、単に刺激を再現するものではなく、これを加工し、刺激をほのめかし、ある連関の中にはめこみ、その刺激を他の何者かで代理する。

次に夢の相違点を見る。

白日夢、(空想、妄想)がヒントになるかもしれない。白日夢においては人が自分が空想していることをしっており、見ているのではなく考えている状態。

白日夢は野心、性愛欲など生活事情の変化に応じて変わっていく事があり、いわば時と共に歩み、時によって新しい状況の影響を立証する「時の刻印」を受けるのみ。

ー第6講ー

夢は身体的現象ではなく、心的な現象であると仮定する。

夢を見た人はその夢が何を意味しているのか知っている、ただ自分が夢の意味を知っているという事を知らないのであり、そのために分が知らないと信じているだけ。

人は自分が知っていることを全く知らずにいるというような事は注目すべき、着想外の事実で、この事実を命名するならば「形容矛盾」になる。

この事実の証明は催眠現象の領域において与えられた。催眠臨床の際、彼は最初知らないと言い張り続けた。しかし要求すると次第に、そして最後には完全に思い出した。彼は知らないと信じていただけだった。

催眠状態と睡眠状態との間には親近関係がある。催眠状態の眠りは、催眠法を書ける人との間に感情的結合関係が保たれている。これは胎児の眠りと似ている。

夢のある要素について語らせる時、出発点となる表象をしっかりと念頭に置いたうえで自由な連想が必要で、熟考を排除し、たとえば固有名詞や数字などを思いのままに連想させるような方法が最も強い証明力を持つ。

そしてそれを思いつくときは身近な事情、特性、状況などの強い制約が働いている。

まったく自由に頭に浮かぶような思いつきもしかるべき理由があって浮かんできており、それはいつも同じくたった一つの制約、発端となった表象による制約(コンプレックス)を受けている。そしてその瞬間は無意識である。

これはユング等が連想実験において解明している。この連想実験では反応の決定要因の一つ、刺激語は任意に選ぶことができる。刺激語によってよびさまされた無数のコンプレックスを媒介する。それは未知の源泉から発しており、コンプレックスの後裔となりうる。