備忘録

哲学、文学、その他雑記。学習用。

ドゥルーズ、ガタリ

戦争機械 ドゥルーズガタリにとって,欲望とは機械装置の組み合わせである。欲望 が抑圧の枠を逃れていくとき,その激しさゆえに,彼らはその組み合わせを 「戦争機械」と呼ぶ。「戦争機械」と称されるからといって「戦争」を目標とす るわけではなく,創造的な攻撃性を形容する表現である。枠に収まらないその 勢いゆえに「戦争機械」とは「国家装liqUでなく「遊牧民」に起源を持つ。遊 牧民は戦争機械として国家という装傲を外から脅かしつつ,自らは変容してい く。それに対して国家が戦争機械を自らの中に組み込んでしまったとき,国家 は破壊を伴った恐るべき装置となるのである。

 

 

スキゾフレニとパラノイア サルトルが結局,フロイト精神分析を「修正」した形で受け入れたのに対 して,ドゥルーズガタリはそれに真正面から異議を唱えたと言える。『アン ティ・オイディプス』において彼らは,フロイトの誤りは,ノイローゼ患者の 分析を通して,父親と母親に対する幼少期からの二律背反感情を探り出したも のの,全てをそれに還元してしまった点にあるとする。人間は幼少期から既に 社会的,政治的影響を,両親を通して,あるいは直接受けるわけであり,親と 自分しか住んでいない世界で人格がまず形成されるわけではないのだ('2)。この ような還元主義は,資本主義の要請によるものである。資本主義は,欲望を刺 激しながらも,肥大した欲望が社会を転覆させないように,また資本の投資さ れた産業が利潤を回収できるように,その欲望を方向付けるように努める。欲 Hosei University Repository スキゾフレニとしての「聡吐』 103 望とはまず母親に対する欲望であり,それを父親がチェックして,社会的に責 任をまっとうしつつその欲望を消費にむけるように欲望の主体としての子をし つけるべきだとされるのだ。ノイローゼとは,このメカニズムがうまく行かな い場合である。ところでスキゾフレニはこうしたエディップ的構造には収まら ない。欲望が抑圧の枠組みを一切越えようとして,現実と乖離するのがスキゾ フレニという病気である。欲望が駆り立てられ,同時に抑圧された結果,人格 の統一に障害をきたすという意味で,スキゾフレニは資本主義的な病気である。 しかし,その抑圧から逃れようとする勢いは,出口を求める過程となるのでは ないか。こうしてマルクス主義者であるドゥルーズガタリは,革命の方法論 としてのスキゾフレニを展望する。 抑圧からの逃走を目指すスキゾフレニと対立させてドゥルーズガタリが考 える概念がパラノイアである。一般に偏執狂と訳されるパラノイアとはドゥルー ズとガタリの定義では,分子的な動きである欲望生産を総体化しようとするこ とであり,この意味で全てを家族に還元してしまうエディップ的構造はパラノ イアである。資本主義以前の専制君主体制においては,絶対的権力が全ての価 値基準の中心となり,欲望の方向性を外側から定める。資本主義体制において も,欲望を一定の方向に制御しようとする内面化された力が働く、3)。逃走の過 程としてのスキゾフレニは,マイナーな遊牧民の生き方であるのに対して,欲 望の集中制御としてのパラノイアはメジャーな定住民の生き方と言えよう。 ドゥルーズガタリによると,資本主義にはこのように,欲望を方向付ける パラノ的な動きと,既存の枠から逃れさせようとするスキゾ的な動きとが並存 している。その実,ロカンタンはこの二つの動きを具現しているように思われ る。資本主義の発達により都市労働者階級が形成された中で訳普仏戦争の敗戦, パリ・コミュヌの混乱を経て高まってきたナショナリズムへの価値統合を象徴 し,大地に根を下ろすことの重要性を説いたパレスは,まさにパラノイアの具 現である。このパレス及び,彼の信奉者たち(ブヴィルの富裕なブルジョワ) を何かにつけて潮弄する流れ者のロカンタンは,スキゾ的であると言える。