備忘録

哲学、文学、その他雑記。学習用。

恋愛小説からもう離れてもいいんじゃないのかなぁ、って自分に

 最近なんで恋愛の事ばっかり、そして話ばっかり、頭の中をぐるぐるぐるとめぐりまくっているんだろうと。そんなんお前の私小説にもなってないエッセイにも達していない事を一般公開してんじゃねーぞ、と。

だから最低限の礼儀を持って話を進めようと思う。思います。

 それで分からないのが、名作、古典とされている文学の中でとりあげられているテーマの中に恋愛が包括されていることの多い事多い事。カフカでさえ恋愛の要素は含まれている。”カフカでさえ”というのが正しい意見なのかどうかは分からないけど。

 それで昔はなるべく恋愛要素の入っていない文学小説を読んでいたわけだが、どうしても場面場面、作家毎の系譜とか辿っていくうちにやっぱり恋愛のテーマにぶつかりざるを得なかったから、諦めてもうこれは腰を据えて挑むしかないと。それからむしろ女流作家を積極的に作品を読むようになって(結果恋愛というよりどちらかというとフェミニズムの問題を扱っているような作品が多かったのだが)

それは恋愛というか、つまり単純にこうなんだ。テーマなんかどうでもいい。面白ければいいんだ。プロレタリア文学という一派があったにも関わらず読むに値する作品が小林多喜二しかいなかったという事実。文学と政治とか言われるが、最初から政治スタートなら違うけども、転向して政治に関心を持ち出した瞬間にその作家の作品がつまらなくなるような事と似ているような。似てないか。

 音楽でも同じでどんなにアイドルミュージシャンでも何年も何十年も音楽以外の事しかやらなかった人のレベルというかステージがどんどん上がっていくような感じ。もともとある程度の才能は必要だと思うけど。ってなんで上から目線で語ってんだよ自分。

 大体ねじまき鳥が好きという時点で恋愛小説というか恋愛とか別にカテゴリーに、そんなカテゴリーの仕方が文学に適しているとは思わないけど、そんなものは全く気にならなくなっていった。大体作品の中に包括されいるものだし。意図的に排除するとしたらそれはそれで不自然なものになるだろうし。

作家が一番苦しんでいる、それを他のものにぶつけるそれ恋愛小説になるんだろう、と。でもね。阿部公房さんみたいな人ももう少し、もうちょっと出てきてくださいと。

なんで死んじゃったんですか。別にあの人が今を生きていてもこの時代の世相を斬るみたいな事はしないと思うけど。生きているだけで自分は楽になれるんです。訳の分からない無国籍な意味があるようでないような、でもその言葉からあふれんばかりのイメージが出るメモ用紙を机にはりつけてたばこを吸っている人が今この瞬間にいるんだと思えるだけでいいんだけどなぁ。