備忘録

哲学、文学、その他雑記。学習用。

サルトル「嘔吐」

サルトルの作品全般に多かれ少なかれ言えることだが,編者及 びジュヌヴィエヴ・イットが指摘する通り,特に『嘔吐」は間テクスト性に富 み,他の様々な作品の断片,実在あるいは架空の引用,歌の断片などを数多く 含んでいる(5)。例えば,『嘔吐』で引用される,ロルポンに関する,歴史家ジェ ルマン・ベルジェ(実在)によるメモ(OR.,pl8)は,サルトルが百科事典 からの情報,及びベルジェ自身の他の人物に関する著作を切り貼りして作り上 げたものである(CfOR.,p、1740)。ロカンタンが図書館で読む『ウジェニ・ グランデ』は数節,断続的に引用されている(OR.,pp、58-61)。デカルトの 「我思う,ゆえに我あり」はパロディ化され,様々に形を変えて登場する(OR., ppll9-l21)

ドゥルーズガタリは,遊牧民の芸術手法を象徴的に表すものとしてパッチ ワークを挙げている。それぞれの機能を担った縦糸と横糸が,限定された線条 空間を作り出す織物とは異なり,パッチワークは,様々な布の断片をつなぎ合 わせたもので,その組み合わせは無限の可能性を持ち,作業自体も無限に続け られる可能性がある。その意味で平滑空間を成すと言える(11ⅢP.,pP593-596)。 さまざまなテクストをそのまま,もしくは手を加えてつなぎ合わせたパッチワー クとしての『嘔吐」は,無限に間テクスト性を広げる可能性を持つ,遊牧民的 な要素を備えた作品か。

 

 

。マジョリティとは適合すべきモデルのことであり, それに対してマイノリティはそのようなモデルを持たずに「生成くdevenir>」 する「過程くprocessus>」である。

 

サルトルは,ブルジョワ階級とは自らを普遍階級とみなす人々だと述べる(7)。 語源的には市の立つ大きな村くbourg〉に住む者がブルジョワであるから,ブ ルジョワとは定住民であり,またサルトルにとってのブルジョワは,モデルと しての普遍性をもって任ずるがゆえにドゥルーズ的な意味でのマジョリティで あると言える。サルトルのロカンタンは,働かなくとも自分の研究をしながら 生活ができ,それなりの身なりをしている限りにおいて,ブルジョワに属する はずだが,プヴィルのブルジョワのモデルに従わないという意味でマイナーで ある。家族もなく,一人でホテル住まいをしている孤独な人間として提示され る彼は,徹底的に反ブルジョワとしてふるまう。日曜日に散歩をして,型どお りの挨拶を交わすブヴィルの町のブルジョワたちを彼は皮肉る。長身の彼は, 帽子の群れを見下ろす。「時々,そのうちの一つが腕の先で宙に舞い,脳天の 柔らかなきらめきを露にするのが見える。それから少しして,重々しく飛んで 着陸するのだ(OR.,p54)。」

ただひたすらモデルに従うマジョリティは滑稽 な自動人形でしかない//////???/////

 

あるいはモデルに従うことを強要するブルジョワを,ロカンタンは素っ気な く擬ねつける。カフェでロジェ医師は浮浪者をなぶり者にして笑う。浮浪者も へつらって笑う。ロカンタンは笑いに加わらない。医師と彼はにらみあう。 「それでも顔をそらしたのは彼の方だ。一人ぼっちの,社会的に何の意味もな い奴を前にして,ちょっとばかりびびったわけだ(OR.,p81)。」普遍階級た るブルジョワは,それに属さぬ者も,異常者として従属させようとする。しか しマイナーな外部者はモデルに従うことを拒否する。

 

マイナーな遊牧民であるロカンタンが,ブヴィルのブルジョワたちのモデル に従うことを拒否し,彼らを潮弄する様はまさに戦争機械の攻撃性を備えてい ると言える。これを端的に表しているのが,市立美術館の訪問の場面である。 ロカンタンは,肖像画として描かれたかってのブヴィルの名士たちを潮けり, 美術館を去るときに言う。「さらば美しき百合たちよ。描かれた小さな聖所の 中に収まった,実に繊細なる百合たちよ。さらば美しき百合たちよ,我らが誇 り,我らが存在理由よ・さらばろくでなしどもよ(OR.,pll3)。」市立美術館 に恭しく飾られた歴代のお偉方の価値を認めないということは,現在町に暮ら し,時折り美術館を訪れる良きilj氏たちを侮辱することでもある。

 

あるいは図書館で同性愛行為を摘発された「独学者」が司書に殴られた際に, 彼をかばって司書を押さえつけるロカンタン(OR.’ppl97-l98)はまさに機 械のような圧倒的な力を見せつける。これは司書の暴力ばかりでなく,正義を 振りかざしながら,事件に酔いしれ,司書をたきつける周りの人々に対する異 議申し立てでもある。しかしそれは単に暴力を制圧して場を治めようという義 侠心を表した行為ではないように思われる。「僕は何も言わなかったが,奴の 鼻を殴って,ぽこぽこにしてやろうと思った。」大柄な流れ者は,まさに戦争 機械としてプヴィルの正義を攻撃する。 それに対して人間を愛し,ヒューマニストをもって任ずろ「独学者」は,一 見気の弱い従順な男である。同性愛行為の摘発に対して,憤然と否定して見せ Hosei University Repository 100 るものの,殴られるとくじけて退散する。「真面目な場所」に「教養を身につ けに来る」人たちの一人である女性は叫ぶ。「私には子供はいませんよ。でも 自分の子供たちをここへ勉強しによこし,彼らが落ち着いて安全な場所にいる と思い込んでいる母親たちが気の毒ですよ。何も尊重せず,子供たちが宿題を するのを邪魔する怪物がいるんですからね(0尺,p・'96)。」彼は,今や「子供 たちの敵」としてプヴィルの良き市民たちを脅かす存在である。図書館を追わ れ,自分の部屋に帰ることもできずに町を坊復う欲望機械は戦争機械となった。 モデルに従うことを拒否するマイナーな機械とモデルに従えないマイナーな機 械。両者は一つの系列をなす。

 

市町村は国家装置の部品を成す。ブヴィルの町は,石炭及び木材の荷降ろし 港として国家の産業の発展に貢献し,また'914年の大戦の際には,国家に息 子たちを奉げた。

 

 

サルトルフロイト 他方,このロカンタンの夢は,サルトル自身の精神分析に対する微妙な態度 を示しているように思われる。「嘔吐』の直後(1938年)に書かれた「一指導 者の幼年時代』において,語りは一方で様々な場面のフロイト的な解釈を促し ながら,他方ではそれをばかばかしく見せている。結局主人公リュシアンが, 精神分析に感化され,学校の教師によって迷いから覚まされることになるので あるcパレスに関する夢も,『-指導者」におけるほど明確でないにせよ,こ うした両義性を備えているように見える。前者に従えば,パレスは同性愛の父 親であり,パレスが三人のうちの-人の顔にある穴にスミレ〈violettes〉を 差し込むのは強姦()の象徴であり,パレスの尻を叩くのは復讐をか ねた逆方向の行為であるということになろう。しかしそれが全て馬鹿げたこじ つけだということも可能なのだ(8)。 サルトルが『嘔吐』の前身『メランコリア』を執筆していた1933年頃,つ まりサルトルルアーヴルに,ポーヴォワールがルーアンにそれぞれ高校教師 として勤務していた頃,彼らはフロイトの理論に対する魅惑と反発をすでに感 じていた。 我々の矛盾の一つは,我々が無意識を否定していたことである。それでも ジッドシュルレアリストたち,そして我々が抵抗したにもかかわらず, フロイトまでが,あらゆる存在の中に「砕くことのできない闇の核」が存 Hosei University Repository 102 在すると我々に確信を抱かせていた(9)。