備忘録

哲学、文学、その他雑記。学習用。

嘔吐②

ロカンタンと同時代のサルトルの主人公,ポール・イルベール(『エロス トラート』,執筆は1936年ごろで,1939年発行の『壁』に所収)にも触れておこう。彼は,徹底した反ヒューマニズムを掲げ(ロカンタンも「独学者」と の会食の際,「ヒューマニスト」というメジャー集団に入れられることを拒む。 OR.,p、140),無差別殺人を企てた点で,マイナーな戦争機械であると言える。 しかし神殿の破壊によって後世に語り伝えられるエロストラートと同じように, 前代未聞の悪行によって名を残したいとこだわる点で,パラノである。そも そも彼の被害妄想,誇大妄想は,古典的な意味でのパラノイアの徴候を示して いる。結局彼は,この「冒険」願望から解放されることなく,破滅に至るので ある。

 

結局,過去を再び存在させることは不可能であると思い至ったロカンタンは, 歴史書の執筆をあきらめることになる(OR.,pll3)。そしてこれが,現実を 空想された必然性の伜に組みこむことに他ならない「冒険」の放棄につながる のである。パラノ的価値の放棄である。その直後の場面に注目したい。自分の 部屋を出たロカンタンは新聞を買い,少女暴行殺害の記事を読み,莊然と町の Hosei University Repository スキゾフレニとしての「鴫11J 中を歩く。内的独白(wによって彼の内面はつづられる。 105 僕は逃げる,下劣な男は逃走した,犯された肉体。(…)暴行の血なまぐ さい柔らかな欲望が僕を後ろから捉える,全く柔らかな,耳の後ろに,耳 が僕の後ろに流れ去る,赤茶けた髪,それは僕の頭の上で赤い,濡れた 草,赤茶けた草,それはまだ僕なのか,そして新聞はまだ僕なのか(…) (OR.,pl20) 延々と連なる文において,ロカンタンの意識が犯人,犠牲者と混合し,さら にはものとの区別もつかなくなる。欲望が主体としての個体性を失って逃げる。 この後,ロカンタンの日記は,「何もなし。存在した。」という一行だけ書かれ た一日を置いて,その次の日の,「独学者」との昼食,市電,公園のマロニエ の場面へと続く。そこでロカンタンは存在の偶然性に気付き,「自由」を実感 するのである。しかし内的独白の場面においては,そこまで至ってはいない。 あくまでも欲望は逃げるのである。

 

サルトルにとって, 意識は存在を対象化して未来へと超越していく。これが意識はその存在から自 由であるという意味なのだ。

しかしドゥルーズガタリにとって,存在をしっ かり受け止め,それから自由であろうとするような考え方はパラノ的な発想で ある。

 

歴史書を書くことをあきらめたロカンタンは,プヴィルを去ることを心に決 め,今度は小説を書こうかと思いつく。この『嘔吐」の結末は読者に少なから ぬ戸惑いを与えた。存在の偶然性に気付き,自由を見出した主人公が,小説作 品という,あらかじめ作者の定めた筋響きに従って展開する,必然の世界を創 り出すことで再び自らの存在を正当化しようとするとは,結局父親の後継ぎと いうアイデンティティによって自己正当化しようとする『-指導者の幼年時代』 のリュシアンと同じ道をたどるのではないか,『存在と無』で説明される,自 由を自らに隠す「自己欺臓」に再び陥るのではないか。サルトルが自ら展開す る思想に沿って考えれば,この暖昧性は否定しようがないと思われる。しかし これを,マイナーな遊牧民としてプヴィルで生活してきた男の新たなる出発と 考えれば,いくらか納得のいく解釈ができそうにも思われる。

ロカンタンは歴史書を書こうとして10年間資料を集めており,モスクワま で赴きもした。実証性を要求される歴史書に瀞かれる対象はあくまでも現実の 枠の中に収まらなくてはならない。その意味で歴史書は限定された世界である と言える。ただしロカンタンの歴史識は,小説の筋のような生き方をした「冒 険家」を対象としていた。

彼の歴史とは現実の枠の中に空想を入れ込むという 企てだったのだ。現実という限定の中に,無限の事実が不連続に発見され,そ の穴を埋めるべく,無限の空想が働く。それを全て統率しようとするロカンタ ンのパラノ的な企ては行き詰まる。

 

それに対して「存在しない」対象を描く小説作品は,空想によって生み出される無限定の世界であると言えよう。この世 界はたとえ現実に素材をとっているとしても,作者の創り出した有限の要素が 互いにつながりあって成り立つ。

 

ジャンーフランスワ・ルゥエットは,『-指導者の幼年時代』(1938年)は, 自己意識と他者の見た自分の対立,その統合としての自己欺臓の演技という弁 証法的展開によって進行し,それが『存在と無』(1943年)の理論的展開の構 造を先取りしていることを指摘している('7)。そしてその後サルトルは,倫理学歴史認識を,既存の価値,制度があらたなる価値,制度によって否定,超越さ れ,それがさらに新たなる価値,制度によって否定,超越されるという,統合 のない弁証法を展開させていくことになるのである。しかし『嘔吐』において, 主人公は人間的な意味付けを失った存在(人間も物も区別されない)を前に呆 然とする。彼は想像の世界へと逃げることが示唆されるが,これは弁証法的な 否定といえるだろうか。

 

他方,『-指導者の幼年時代』を初めとして,『ポードレール」(1947年), 『家の馬鹿息子』などでは,主人公の人格形成に関して両親との関係が強調さ れ,さらに父親は社会的,政治的有力者として提示される。いわば,社会的, 政治的次元が家族の次元に還元されているのである。特にポードレール論,フ ロベール論は,実存主義精神分析の実践例である。『嘔吐』においては,パ レスの尻打ちの夢に関しても,またブヴィルの美術館訪問に関しても,主人公 の攻撃の対象は国家装置であり,父親の像はその陰からのぞいているにすぎな い。そもそもロカンタンは家族のない流れ者として登場するのだ。

 

サルトルか,ドゥルーズとガタ リに30年以上先立って,遊牧民的でマイナーな感性を抱いていたことである。 Hosei University Repository スキゾフレニとしての「嘔吐」 109 この感性が小説という多義性を含む形式を通して,いわばパラノ的な弁証法フロイト主義をしばし脇にのけたのではなかろうか。しかし遊牧性,マイナー 性は,ドゥルーズガタリが指摘しているようにカフカにもあてはまることで あり,また「異邦人」をテーマにしたポードレール,カミュにも通じることで ある。つまりこの感性がそれだけ,時間的にまた空間的に遍在性を持つという ことである。もう一つは,サルトルが,そして多くの思想家が受け入れた,あ るいはそれに補われた弁証法的視点及びフロイトの思想の,影響力の強さであ り,またその重さである。『嘔吐』におけるつかの間の「逃走」にもかかわら ず,サルトルは結局両者と格闘し続けることになるのだ。

 

現在,そのサルトルが疎んじられている。それはつまり,こうした重い,果 てしないパラノイアックな格闘が,疎んじられているということかもしれない。 それともサルトルの余りにも破壊的なスキゾフレニが不安を呼び起こすのだろ うか。