けろりと忘れる
勉強してそれからけろりと忘れてもいいんだ。
覚えるということが大事なのではなくて、大事なのはカルチベートされると言う事なんだ。
カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事ではなくて。心を広く持つという事なんだ。
つまり愛すると言う事なんだ。
全部忘れてしまっても。その勉強の訓練の底に一掴みの砂金が残っているものだ。
これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
そうして、その学問を、生活に無理に直接役立てようとあせってはいかん。
ゆったりと。真にカルチベートされた人間になれ!
太宰治。「正義と微笑」より。
友人から送られてきたメッセージだったのだけれども、まさに自分の心の奥底に一掴みの砂金があったんだという思いに駆られた言葉だった。
今自分は焦燥感と不安感で駆られる気持ちでいっぱいだった。
それでいいんだよ、という言葉で足から崩れ落ちて泣き崩すようなワンシーン。優秀で仁徳もある精神科医が患者に言ったセリフでもよく見かけるように思う。専門的な知識、療法名はしらないが。
それは前から知っていて、他人にその行為を行った事は何度か行ったこともあるが、自分がされたという記憶はあまりない。
そういう意味において孤独な人生だった。文学を漁って本を読みあさる人の多くはそうなんじゃないんだろうか。
太宰は読みやすく、人前において気さくで社交的で、尚且つ自己の中に純粋と狂気が入り混じった無頼派の一面もある文学者だと認識していたが。
つまり認識という言葉を使っている時点でそこまで太宰治という文学者には執着していなかったが、少し見方を変えるべきなのかとも思う。というより自分の見方を変えたほうが楽なんだろうと思う。すぐれた文学、文章というのは人の魂を救う言葉なんだ。
という極論にも似た瞬間的な衝動で、宗教的な崇拝心にも近い単体への固執は好きではないのだけれども、
今の自分にとってはその方が良い、これからはそのほうがよいのだろう。
それともう一つ。カルチベートするではなく、カルチベートされるという受動態を使っている辺りにも言及したいことがある。