備忘録

哲学、文学、その他雑記。学習用。

大工よ、屋根の梁を高く上げよ

梁(はり、りょう)

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梁とは、柱と柱の間に渡す水平材のこと。

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建物の骨組みのなかで、
柱の上部の側面に
ホゾ(接合するための突起)差しで止めてある水平材(横架材)。
柱が斜めに倒れないように建物を支える構造上重要な部材 。

もっとも外側の妻側にある梁を「妻梁(つまばり)」、
(オレンジの部分。)

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家の内側にある梁を「本梁(ほんばり)」という。

(ピンクの部分)

妻梁と本梁の上に位置するのが小屋梁。
(赤い部分)

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桁とは、梁とは垂直の位置、
棟木(むねぎ)とは平行の位置にあり、
屋根を支える部材。
(青い部分)

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柱の上に横に渡して垂木(たるき)を受ける材。

梁(はり)と打ち違いになる。

建物で柱などの上に横に渡して、
上部の構造体を支える横架材。
家屋では、梁と直交する位置にあり、屋根を支える。

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棟木(むねぎ)とは、屋根を作るために桁と平行に、
最も高いところに配される部材。
上棟式の「棟」とは、棟木のこと。
(緑部分)

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家の中で、一番上に使われている部材
桁、母屋と平行の位置にあり、
屋根の荷重を、小屋束から梁へ伝える
役目を果たしている。

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母屋(おもや)とは、屋根の部材の一部。

最も高い部材である棟木と、
屋根を支える桁の中間に、
その両方と平行になるように、
垂木の下にかけられた部材。
(茶色い部分)

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胴差しとは、2階の床を作るための部材。

梁、桁と平行に、建物の周り(胴)をぐるりと巡る。

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1階の床を支えるのが土台なら、
2階の床の土台ともいえるのが胴差し。

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外壁の周りにあって、通し柱と通し柱をつないでいる。

構造的には、屋根の荷重は通し柱に任せ、
なおかつ、2階床の荷重を、
通し柱を通じて下へ伝える形になっている。

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なお、2階を支えると同時に
耐力壁である外壁を造る大切な部材。

 

嘔吐②

ロカンタンと同時代のサルトルの主人公,ポール・イルベール(『エロス トラート』,執筆は1936年ごろで,1939年発行の『壁』に所収)にも触れておこう。彼は,徹底した反ヒューマニズムを掲げ(ロカンタンも「独学者」と の会食の際,「ヒューマニスト」というメジャー集団に入れられることを拒む。 OR.,p、140),無差別殺人を企てた点で,マイナーな戦争機械であると言える。 しかし神殿の破壊によって後世に語り伝えられるエロストラートと同じように, 前代未聞の悪行によって名を残したいとこだわる点で,パラノである。そも そも彼の被害妄想,誇大妄想は,古典的な意味でのパラノイアの徴候を示して いる。結局彼は,この「冒険」願望から解放されることなく,破滅に至るので ある。

 

結局,過去を再び存在させることは不可能であると思い至ったロカンタンは, 歴史書の執筆をあきらめることになる(OR.,pll3)。そしてこれが,現実を 空想された必然性の伜に組みこむことに他ならない「冒険」の放棄につながる のである。パラノ的価値の放棄である。その直後の場面に注目したい。自分の 部屋を出たロカンタンは新聞を買い,少女暴行殺害の記事を読み,莊然と町の Hosei University Repository スキゾフレニとしての「鴫11J 中を歩く。内的独白(wによって彼の内面はつづられる。 105 僕は逃げる,下劣な男は逃走した,犯された肉体。(…)暴行の血なまぐ さい柔らかな欲望が僕を後ろから捉える,全く柔らかな,耳の後ろに,耳 が僕の後ろに流れ去る,赤茶けた髪,それは僕の頭の上で赤い,濡れた 草,赤茶けた草,それはまだ僕なのか,そして新聞はまだ僕なのか(…) (OR.,pl20) 延々と連なる文において,ロカンタンの意識が犯人,犠牲者と混合し,さら にはものとの区別もつかなくなる。欲望が主体としての個体性を失って逃げる。 この後,ロカンタンの日記は,「何もなし。存在した。」という一行だけ書かれ た一日を置いて,その次の日の,「独学者」との昼食,市電,公園のマロニエ の場面へと続く。そこでロカンタンは存在の偶然性に気付き,「自由」を実感 するのである。しかし内的独白の場面においては,そこまで至ってはいない。 あくまでも欲望は逃げるのである。

 

サルトルにとって, 意識は存在を対象化して未来へと超越していく。これが意識はその存在から自 由であるという意味なのだ。

しかしドゥルーズガタリにとって,存在をしっ かり受け止め,それから自由であろうとするような考え方はパラノ的な発想で ある。

 

歴史書を書くことをあきらめたロカンタンは,プヴィルを去ることを心に決 め,今度は小説を書こうかと思いつく。この『嘔吐」の結末は読者に少なから ぬ戸惑いを与えた。存在の偶然性に気付き,自由を見出した主人公が,小説作 品という,あらかじめ作者の定めた筋響きに従って展開する,必然の世界を創 り出すことで再び自らの存在を正当化しようとするとは,結局父親の後継ぎと いうアイデンティティによって自己正当化しようとする『-指導者の幼年時代』 のリュシアンと同じ道をたどるのではないか,『存在と無』で説明される,自 由を自らに隠す「自己欺臓」に再び陥るのではないか。サルトルが自ら展開す る思想に沿って考えれば,この暖昧性は否定しようがないと思われる。しかし これを,マイナーな遊牧民としてプヴィルで生活してきた男の新たなる出発と 考えれば,いくらか納得のいく解釈ができそうにも思われる。

ロカンタンは歴史書を書こうとして10年間資料を集めており,モスクワま で赴きもした。実証性を要求される歴史書に瀞かれる対象はあくまでも現実の 枠の中に収まらなくてはならない。その意味で歴史書は限定された世界である と言える。ただしロカンタンの歴史識は,小説の筋のような生き方をした「冒 険家」を対象としていた。

彼の歴史とは現実の枠の中に空想を入れ込むという 企てだったのだ。現実という限定の中に,無限の事実が不連続に発見され,そ の穴を埋めるべく,無限の空想が働く。それを全て統率しようとするロカンタ ンのパラノ的な企ては行き詰まる。

 

それに対して「存在しない」対象を描く小説作品は,空想によって生み出される無限定の世界であると言えよう。この世 界はたとえ現実に素材をとっているとしても,作者の創り出した有限の要素が 互いにつながりあって成り立つ。

 

ジャンーフランスワ・ルゥエットは,『-指導者の幼年時代』(1938年)は, 自己意識と他者の見た自分の対立,その統合としての自己欺臓の演技という弁 証法的展開によって進行し,それが『存在と無』(1943年)の理論的展開の構 造を先取りしていることを指摘している('7)。そしてその後サルトルは,倫理学歴史認識を,既存の価値,制度があらたなる価値,制度によって否定,超越さ れ,それがさらに新たなる価値,制度によって否定,超越されるという,統合 のない弁証法を展開させていくことになるのである。しかし『嘔吐』において, 主人公は人間的な意味付けを失った存在(人間も物も区別されない)を前に呆 然とする。彼は想像の世界へと逃げることが示唆されるが,これは弁証法的な 否定といえるだろうか。

 

他方,『-指導者の幼年時代』を初めとして,『ポードレール」(1947年), 『家の馬鹿息子』などでは,主人公の人格形成に関して両親との関係が強調さ れ,さらに父親は社会的,政治的有力者として提示される。いわば,社会的, 政治的次元が家族の次元に還元されているのである。特にポードレール論,フ ロベール論は,実存主義精神分析の実践例である。『嘔吐』においては,パ レスの尻打ちの夢に関しても,またブヴィルの美術館訪問に関しても,主人公 の攻撃の対象は国家装置であり,父親の像はその陰からのぞいているにすぎな い。そもそもロカンタンは家族のない流れ者として登場するのだ。

 

サルトルか,ドゥルーズとガタ リに30年以上先立って,遊牧民的でマイナーな感性を抱いていたことである。 Hosei University Repository スキゾフレニとしての「嘔吐」 109 この感性が小説という多義性を含む形式を通して,いわばパラノ的な弁証法フロイト主義をしばし脇にのけたのではなかろうか。しかし遊牧性,マイナー 性は,ドゥルーズガタリが指摘しているようにカフカにもあてはまることで あり,また「異邦人」をテーマにしたポードレール,カミュにも通じることで ある。つまりこの感性がそれだけ,時間的にまた空間的に遍在性を持つという ことである。もう一つは,サルトルが,そして多くの思想家が受け入れた,あ るいはそれに補われた弁証法的視点及びフロイトの思想の,影響力の強さであ り,またその重さである。『嘔吐』におけるつかの間の「逃走」にもかかわら ず,サルトルは結局両者と格闘し続けることになるのだ。

 

現在,そのサルトルが疎んじられている。それはつまり,こうした重い,果 てしないパラノイアックな格闘が,疎んじられているということかもしれない。 それともサルトルの余りにも破壊的なスキゾフレニが不安を呼び起こすのだろ うか。

ドゥルーズ、ガタリ

戦争機械 ドゥルーズガタリにとって,欲望とは機械装置の組み合わせである。欲望 が抑圧の枠を逃れていくとき,その激しさゆえに,彼らはその組み合わせを 「戦争機械」と呼ぶ。「戦争機械」と称されるからといって「戦争」を目標とす るわけではなく,創造的な攻撃性を形容する表現である。枠に収まらないその 勢いゆえに「戦争機械」とは「国家装liqUでなく「遊牧民」に起源を持つ。遊 牧民は戦争機械として国家という装傲を外から脅かしつつ,自らは変容してい く。それに対して国家が戦争機械を自らの中に組み込んでしまったとき,国家 は破壊を伴った恐るべき装置となるのである。

 

 

スキゾフレニとパラノイア サルトルが結局,フロイト精神分析を「修正」した形で受け入れたのに対 して,ドゥルーズガタリはそれに真正面から異議を唱えたと言える。『アン ティ・オイディプス』において彼らは,フロイトの誤りは,ノイローゼ患者の 分析を通して,父親と母親に対する幼少期からの二律背反感情を探り出したも のの,全てをそれに還元してしまった点にあるとする。人間は幼少期から既に 社会的,政治的影響を,両親を通して,あるいは直接受けるわけであり,親と 自分しか住んでいない世界で人格がまず形成されるわけではないのだ('2)。この ような還元主義は,資本主義の要請によるものである。資本主義は,欲望を刺 激しながらも,肥大した欲望が社会を転覆させないように,また資本の投資さ れた産業が利潤を回収できるように,その欲望を方向付けるように努める。欲 Hosei University Repository スキゾフレニとしての「聡吐』 103 望とはまず母親に対する欲望であり,それを父親がチェックして,社会的に責 任をまっとうしつつその欲望を消費にむけるように欲望の主体としての子をし つけるべきだとされるのだ。ノイローゼとは,このメカニズムがうまく行かな い場合である。ところでスキゾフレニはこうしたエディップ的構造には収まら ない。欲望が抑圧の枠組みを一切越えようとして,現実と乖離するのがスキゾ フレニという病気である。欲望が駆り立てられ,同時に抑圧された結果,人格 の統一に障害をきたすという意味で,スキゾフレニは資本主義的な病気である。 しかし,その抑圧から逃れようとする勢いは,出口を求める過程となるのでは ないか。こうしてマルクス主義者であるドゥルーズガタリは,革命の方法論 としてのスキゾフレニを展望する。 抑圧からの逃走を目指すスキゾフレニと対立させてドゥルーズガタリが考 える概念がパラノイアである。一般に偏執狂と訳されるパラノイアとはドゥルー ズとガタリの定義では,分子的な動きである欲望生産を総体化しようとするこ とであり,この意味で全てを家族に還元してしまうエディップ的構造はパラノ イアである。資本主義以前の専制君主体制においては,絶対的権力が全ての価 値基準の中心となり,欲望の方向性を外側から定める。資本主義体制において も,欲望を一定の方向に制御しようとする内面化された力が働く、3)。逃走の過 程としてのスキゾフレニは,マイナーな遊牧民の生き方であるのに対して,欲 望の集中制御としてのパラノイアはメジャーな定住民の生き方と言えよう。 ドゥルーズガタリによると,資本主義にはこのように,欲望を方向付ける パラノ的な動きと,既存の枠から逃れさせようとするスキゾ的な動きとが並存 している。その実,ロカンタンはこの二つの動きを具現しているように思われ る。資本主義の発達により都市労働者階級が形成された中で訳普仏戦争の敗戦, パリ・コミュヌの混乱を経て高まってきたナショナリズムへの価値統合を象徴 し,大地に根を下ろすことの重要性を説いたパレスは,まさにパラノイアの具 現である。このパレス及び,彼の信奉者たち(ブヴィルの富裕なブルジョワ) を何かにつけて潮弄する流れ者のロカンタンは,スキゾ的であると言える。

サルトル「嘔吐」

サルトルの作品全般に多かれ少なかれ言えることだが,編者及 びジュヌヴィエヴ・イットが指摘する通り,特に『嘔吐」は間テクスト性に富 み,他の様々な作品の断片,実在あるいは架空の引用,歌の断片などを数多く 含んでいる(5)。例えば,『嘔吐』で引用される,ロルポンに関する,歴史家ジェ ルマン・ベルジェ(実在)によるメモ(OR.,pl8)は,サルトルが百科事典 からの情報,及びベルジェ自身の他の人物に関する著作を切り貼りして作り上 げたものである(CfOR.,p、1740)。ロカンタンが図書館で読む『ウジェニ・ グランデ』は数節,断続的に引用されている(OR.,pp、58-61)。デカルトの 「我思う,ゆえに我あり」はパロディ化され,様々に形を変えて登場する(OR., ppll9-l21)

ドゥルーズガタリは,遊牧民の芸術手法を象徴的に表すものとしてパッチ ワークを挙げている。それぞれの機能を担った縦糸と横糸が,限定された線条 空間を作り出す織物とは異なり,パッチワークは,様々な布の断片をつなぎ合 わせたもので,その組み合わせは無限の可能性を持ち,作業自体も無限に続け られる可能性がある。その意味で平滑空間を成すと言える(11ⅢP.,pP593-596)。 さまざまなテクストをそのまま,もしくは手を加えてつなぎ合わせたパッチワー クとしての『嘔吐」は,無限に間テクスト性を広げる可能性を持つ,遊牧民的 な要素を備えた作品か。

 

 

。マジョリティとは適合すべきモデルのことであり, それに対してマイノリティはそのようなモデルを持たずに「生成くdevenir>」 する「過程くprocessus>」である。

 

サルトルは,ブルジョワ階級とは自らを普遍階級とみなす人々だと述べる(7)。 語源的には市の立つ大きな村くbourg〉に住む者がブルジョワであるから,ブ ルジョワとは定住民であり,またサルトルにとってのブルジョワは,モデルと しての普遍性をもって任ずるがゆえにドゥルーズ的な意味でのマジョリティで あると言える。サルトルのロカンタンは,働かなくとも自分の研究をしながら 生活ができ,それなりの身なりをしている限りにおいて,ブルジョワに属する はずだが,プヴィルのブルジョワのモデルに従わないという意味でマイナーで ある。家族もなく,一人でホテル住まいをしている孤独な人間として提示され る彼は,徹底的に反ブルジョワとしてふるまう。日曜日に散歩をして,型どお りの挨拶を交わすブヴィルの町のブルジョワたちを彼は皮肉る。長身の彼は, 帽子の群れを見下ろす。「時々,そのうちの一つが腕の先で宙に舞い,脳天の 柔らかなきらめきを露にするのが見える。それから少しして,重々しく飛んで 着陸するのだ(OR.,p54)。」

ただひたすらモデルに従うマジョリティは滑稽 な自動人形でしかない//////???/////

 

あるいはモデルに従うことを強要するブルジョワを,ロカンタンは素っ気な く擬ねつける。カフェでロジェ医師は浮浪者をなぶり者にして笑う。浮浪者も へつらって笑う。ロカンタンは笑いに加わらない。医師と彼はにらみあう。 「それでも顔をそらしたのは彼の方だ。一人ぼっちの,社会的に何の意味もな い奴を前にして,ちょっとばかりびびったわけだ(OR.,p81)。」普遍階級た るブルジョワは,それに属さぬ者も,異常者として従属させようとする。しか しマイナーな外部者はモデルに従うことを拒否する。

 

マイナーな遊牧民であるロカンタンが,ブヴィルのブルジョワたちのモデル に従うことを拒否し,彼らを潮弄する様はまさに戦争機械の攻撃性を備えてい ると言える。これを端的に表しているのが,市立美術館の訪問の場面である。 ロカンタンは,肖像画として描かれたかってのブヴィルの名士たちを潮けり, 美術館を去るときに言う。「さらば美しき百合たちよ。描かれた小さな聖所の 中に収まった,実に繊細なる百合たちよ。さらば美しき百合たちよ,我らが誇 り,我らが存在理由よ・さらばろくでなしどもよ(OR.,pll3)。」市立美術館 に恭しく飾られた歴代のお偉方の価値を認めないということは,現在町に暮ら し,時折り美術館を訪れる良きilj氏たちを侮辱することでもある。

 

あるいは図書館で同性愛行為を摘発された「独学者」が司書に殴られた際に, 彼をかばって司書を押さえつけるロカンタン(OR.’ppl97-l98)はまさに機 械のような圧倒的な力を見せつける。これは司書の暴力ばかりでなく,正義を 振りかざしながら,事件に酔いしれ,司書をたきつける周りの人々に対する異 議申し立てでもある。しかしそれは単に暴力を制圧して場を治めようという義 侠心を表した行為ではないように思われる。「僕は何も言わなかったが,奴の 鼻を殴って,ぽこぽこにしてやろうと思った。」大柄な流れ者は,まさに戦争 機械としてプヴィルの正義を攻撃する。 それに対して人間を愛し,ヒューマニストをもって任ずろ「独学者」は,一 見気の弱い従順な男である。同性愛行為の摘発に対して,憤然と否定して見せ Hosei University Repository 100 るものの,殴られるとくじけて退散する。「真面目な場所」に「教養を身につ けに来る」人たちの一人である女性は叫ぶ。「私には子供はいませんよ。でも 自分の子供たちをここへ勉強しによこし,彼らが落ち着いて安全な場所にいる と思い込んでいる母親たちが気の毒ですよ。何も尊重せず,子供たちが宿題を するのを邪魔する怪物がいるんですからね(0尺,p・'96)。」彼は,今や「子供 たちの敵」としてプヴィルの良き市民たちを脅かす存在である。図書館を追わ れ,自分の部屋に帰ることもできずに町を坊復う欲望機械は戦争機械となった。 モデルに従うことを拒否するマイナーな機械とモデルに従えないマイナーな機 械。両者は一つの系列をなす。

 

市町村は国家装置の部品を成す。ブヴィルの町は,石炭及び木材の荷降ろし 港として国家の産業の発展に貢献し,また'914年の大戦の際には,国家に息 子たちを奉げた。

 

 

サルトルフロイト 他方,このロカンタンの夢は,サルトル自身の精神分析に対する微妙な態度 を示しているように思われる。「嘔吐』の直後(1938年)に書かれた「一指導 者の幼年時代』において,語りは一方で様々な場面のフロイト的な解釈を促し ながら,他方ではそれをばかばかしく見せている。結局主人公リュシアンが, 精神分析に感化され,学校の教師によって迷いから覚まされることになるので あるcパレスに関する夢も,『-指導者」におけるほど明確でないにせよ,こ うした両義性を備えているように見える。前者に従えば,パレスは同性愛の父 親であり,パレスが三人のうちの-人の顔にある穴にスミレ〈violettes〉を 差し込むのは強姦()の象徴であり,パレスの尻を叩くのは復讐をか ねた逆方向の行為であるということになろう。しかしそれが全て馬鹿げたこじ つけだということも可能なのだ(8)。 サルトルが『嘔吐』の前身『メランコリア』を執筆していた1933年頃,つ まりサルトルルアーヴルに,ポーヴォワールがルーアンにそれぞれ高校教師 として勤務していた頃,彼らはフロイトの理論に対する魅惑と反発をすでに感 じていた。 我々の矛盾の一つは,我々が無意識を否定していたことである。それでも ジッドシュルレアリストたち,そして我々が抵抗したにもかかわらず, フロイトまでが,あらゆる存在の中に「砕くことのできない闇の核」が存 Hosei University Repository 102 在すると我々に確信を抱かせていた(9)。

実際生活とヘンリー・ミラーと

ところで

「インターネットの世界では無限の情報があると感じているだけで実際は自分の頭の中で起こりうる出来事でしか検索はできない。それはどのwebサービスにもいえることであり、やはり外に出て何気ない言葉、それはほとんど意味のないものだったりするわけだけど、中には自分の身体中にクリーンヒットする事もあり、それこそが大事なインプットになって消化されアウトプットされる事が云々なんちゃらかんちゃら」

「大事なことは影響されすぎない事だよ。そんなものを素直に純朴に受け入れていったら何が何だか分からなくなるに決まっている。じゃあ一定の距離を取っているのがいいのか。それは自分に確信を持てている人だけだ。惑わされるな。頑固になったら今度は空気を読めない人なんちゃらかんちゃら」

 

なんちゃらかんちゃらだよ、なんじゃこら。だけども

 

それは体験しないとわからない事だしそれを体験するのは至難だし、そこでだ。体験した人のほんとうに細かいどういうか実際どうだったか、その人の考え、感想、意見じゃなくて感覚は信頼できる。というか信頼に値する事。

だからといってこれを最初からやっていてもだめなんだよね。はたからみたら中身のある人間に見えるし、見栄えもいい大人になる。いやそういう上昇志向的な人間なら別に文句もないけど、説教してくるから。いや関係ないんだって。向かうところがそもそも違うんだから。

それにしても自分はバカだったなぁ。その人の感覚を大事にする。それを人生経験と「言葉」に集約して捉えてしまっていたからなぁ。これに気づくまで遅かったなぁ。てか違うな。やっぱり仕事の人間関係ではないからだな。いや仕事の人間関係でもたまーにあるけどね。

文学やってようが芸術やってようが首つろうとしようが社会人経験は必須だね。

 

ヘンリー・ミラーの「南回帰線」これも大好きな小説だけど、主人公はどん底の状況で笑っている。笑っているのか。共感能力が低いがありえない程タフなのか。

こうかもしれない。自分に確信を持っているのか。

つまるところ処女作を読みたい。刊行されていないもの。つまりボツになったものだ。

それはミラー自身が言っている。自分は最初からすべてを書こうとした。それは失敗するに決まっている。事実失敗したと。

それはいわゆる徐々に一歩一歩とかではなく、そうしないとヘンリー・ミラーは書きたい事を書けないからだろう。

自分はミラーのその失敗だと思った小説、刊行に至らなかった小説を読みたい。そうでないとすべてが嘘っぱちになるわけだから。

 

そんなことはおいといてミラーの小説はお話しではない小説の中では群を抜いている。

あまりにも遠くを走りすぎている。

 

すごすぎます。おもしろすぎます「南回帰線」

恋愛小説からもう離れてもいいんじゃないのかなぁ、って自分に

 最近なんで恋愛の事ばっかり、そして話ばっかり、頭の中をぐるぐるぐるとめぐりまくっているんだろうと。そんなんお前の私小説にもなってないエッセイにも達していない事を一般公開してんじゃねーぞ、と。

だから最低限の礼儀を持って話を進めようと思う。思います。

 それで分からないのが、名作、古典とされている文学の中でとりあげられているテーマの中に恋愛が包括されていることの多い事多い事。カフカでさえ恋愛の要素は含まれている。”カフカでさえ”というのが正しい意見なのかどうかは分からないけど。

 それで昔はなるべく恋愛要素の入っていない文学小説を読んでいたわけだが、どうしても場面場面、作家毎の系譜とか辿っていくうちにやっぱり恋愛のテーマにぶつかりざるを得なかったから、諦めてもうこれは腰を据えて挑むしかないと。それからむしろ女流作家を積極的に作品を読むようになって(結果恋愛というよりどちらかというとフェミニズムの問題を扱っているような作品が多かったのだが)

それは恋愛というか、つまり単純にこうなんだ。テーマなんかどうでもいい。面白ければいいんだ。プロレタリア文学という一派があったにも関わらず読むに値する作品が小林多喜二しかいなかったという事実。文学と政治とか言われるが、最初から政治スタートなら違うけども、転向して政治に関心を持ち出した瞬間にその作家の作品がつまらなくなるような事と似ているような。似てないか。

 音楽でも同じでどんなにアイドルミュージシャンでも何年も何十年も音楽以外の事しかやらなかった人のレベルというかステージがどんどん上がっていくような感じ。もともとある程度の才能は必要だと思うけど。ってなんで上から目線で語ってんだよ自分。

 大体ねじまき鳥が好きという時点で恋愛小説というか恋愛とか別にカテゴリーに、そんなカテゴリーの仕方が文学に適しているとは思わないけど、そんなものは全く気にならなくなっていった。大体作品の中に包括されいるものだし。意図的に排除するとしたらそれはそれで不自然なものになるだろうし。

作家が一番苦しんでいる、それを他のものにぶつけるそれ恋愛小説になるんだろう、と。でもね。阿部公房さんみたいな人ももう少し、もうちょっと出てきてくださいと。

なんで死んじゃったんですか。別にあの人が今を生きていてもこの時代の世相を斬るみたいな事はしないと思うけど。生きているだけで自分は楽になれるんです。訳の分からない無国籍な意味があるようでないような、でもその言葉からあふれんばかりのイメージが出るメモ用紙を机にはりつけてたばこを吸っている人が今この瞬間にいるんだと思えるだけでいいんだけどなぁ。

 

 

 

 

話が脱線しすぎた。脱線もいいとこ。ねじまき鳥の話なんだけど。ってかなんでこの文章、舞城王太郎みたいになってんのこれ。俺別にそんな影響うけてないんだけど。いや煙か土か食い物は面白かったけどさ。福井人が突破口開こうとするとこんな感じになるのか?また脱線した。

改行した。偉い。←これでしょ。こういうのがでしょ。もう文章にプログラムコード入れたり、矢印いれたり以上にでかいサイズの文字にしたりとかさ。ポストモダンな文学は全部高橋源一郎が達成してるからそれ以上はもういらないんだよ。普通に書け。バカ。

てことでねじまき鳥について。奥さんが出て行ったと。理由はわからないと。引きこもると。でも負けないぞと。でも弱っていく自分がいると。本当にきつい。これはきつい。

初めて読んだときはそんな事あんましらんかったからよくわからんかったけど。まぁそうなんだろうなぁと。女子中学生が大人の恋愛にあこがれるような。うわ。この比喩表現最低のセンスや。しかも正しくないし。実際憧れてもいないし。

読んだ時恋愛部分とセックス部分はうざくてうざくてしょうがなかったけど、満州行ってボリスと出会った間之宮中尉との凄惨な光景に圧倒されたわけで。てかあそこは誰が読んでも面白いと勝手に思っているけども。

問題はそこじゃなくて、あれはとってくっつけたような。いやなんかこうこういう繋がりが暗喩として繋がっていてみたいな解釈はよくわからんけど。

とにかくひきこもって貯金を食いつぶして奥さんを待つっていうのはまぁ無理で。

まぁナツメグみたいなあんなのを登場させてないと話が進展しないし、満州で生まれてみたいに繋げてないとなんか引っかかるものがあるけど。そこはちょっとご都合主義だけども。当時の連載小説なんだからそれは全然問題なし。

あそこからどう考えてもひとりの力で奥さんのもとにはたどり着ける訳がないから。

そういう意味では主人公にやはり特殊な能力を持って、物事を解決していく。がいろんな女性が出てきて振り回されるというスタンスは今のあれにつながってんのかな。

ってそこは評論家にでもしゃべらせとけばいいけど。

ってこの物言いもよくきくよねー。それは評論家でも批評家にでも解釈するのはご自由にどうぞというやつです。どうでもいいわ。

まぁそれにしても俺だ。

俺の夢に悪夢で浮気。尻軽。離れていく。出ていく。

ような見せるというのは時期が時期というのもあるが、これについて苦しんだいや苦しむというか死ぬ一歩手前みたいになった有名人にしろ一般人にしろいっぱいいるわけで(女性じゃないよ男性で)その長年勤めた会社を首になってとかありきたりじゃなくて単純にもう好きじゃなくなったとか。

いやそれならまだ、まだ、まだ、まだぎりぎり納得できるんだけど。それでも半端じゃないショックだけど。その後才能のある人はとんでもない量の失恋作品を残すんだろうけど。あれやめてくれますか。お願いします。

で。一番きついのは実際それをしたっていうのもあるがじゃなくて特に意味もなくというのが、そして去るのも意味もなくっていうのが何より一番きついわけで。

多分だけど女性はそういうことがあっても同じようにいやむしろ男性以上にきつくて死のうとしたりするんだろうけど、理由とか意味とかを男性ほど気にしないような気がする。

と言う事は自分のもとをなぜ去られたということがわかっているのか?興味がないのか?

他の女とか女ができたんだろとかそんな話はよく聞くけど、あぁ男は性欲があるから基本的に応じないといけない。という気負いがあるからかな。そのせいで他に行ったと、だったら最初は求められたのに他に行った。性的な対象と見られなくなったと考えるのか。それでたぶらかした女だと思い込み女の方に憎悪がいくと。

いやー無理がある推理だな。

でもここがわからないと、つまり現実のオカダトオル君は死ぬしかないわけだ。

井戸に潜ったところで何もわかるわけがない。

最高に面白い小説です。「ねじまき鳥クロニクル