備忘録

哲学、文学、その他雑記。学習用。

ねじまき鳥クロニクルを途中から読み始めると止まらなくなる。面白い。だって面白いんだもん。でもなあ、つらいんだよね。10年前はそんなこと思わなかったのに。ってだからといって別に昔読んだ方を大人になってから読み返すと違った印象を持つっていうあれじゃないけど、いやまぁそれに近いのかな。まぁどっちでもいいや。奥さんが家でてってNTRいや寝取られている訳じゃないんだけどさ。てかもうどんなつらい事でも通俗語でまとめるのやめようと。自分一人が言ったところで蚊が血すってるようなもんだけどさ。つらいんだよ。一人一人状況違うし、というか状況は似ていても実際現場の空気感を感じている訳じゃないんだから。現場の空気感感じたから何言ってもいい訳じゃないけど。というかもともと凝り固まった頑固さで現場に乗り込んだとしても自分の中で元々もっていた結論とマッスルパワーで近づけて終わりみたいな、普通の人、少なくともそれなりに自分以外の他人や現象についてそういうものがあるとわかっているレベルの人でもその現場にいったら黙ると思うんだよな。だって解決どころかもうすべてが終わってるんだもん。終わってるのにさらにどんどん悪化していく予想図も描けちゃうわけで。学校のいじめとかもマッスル筋肉パワーで威圧して、教室の外はある種恐怖政治にした所で一過性の効果しかないような感じ。正解かどうかしらないけど。僕は失恋とか馬鹿とか手玉に取る、取られるとか、全く分かっていなかったよ。

けろりと忘れる

勉強してそれからけろりと忘れてもいいんだ。

覚えるということが大事なのではなくて、大事なのはカルチベートされると言う事なんだ。

カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事ではなくて。心を広く持つという事なんだ。

つまり愛すると言う事なんだ。

全部忘れてしまっても。その勉強の訓練の底に一掴みの砂金が残っているものだ。

これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。

そうして、その学問を、生活に無理に直接役立てようとあせってはいかん。

ゆったりと。真にカルチベートされた人間になれ!

 

太宰治。「正義と微笑」より。

 

友人から送られてきたメッセージだったのだけれども、まさに自分の心の奥底に一掴みの砂金があったんだという思いに駆られた言葉だった。

今自分は焦燥感と不安感で駆られる気持ちでいっぱいだった。

それでいいんだよ、という言葉で足から崩れ落ちて泣き崩すようなワンシーン。優秀で仁徳もある精神科医が患者に言ったセリフでもよく見かけるように思う。専門的な知識、療法名はしらないが。

それは前から知っていて、他人にその行為を行った事は何度か行ったこともあるが、自分がされたという記憶はあまりない。

そういう意味において孤独な人生だった。文学を漁って本を読みあさる人の多くはそうなんじゃないんだろうか。

太宰は読みやすく、人前において気さくで社交的で、尚且つ自己の中に純粋と狂気が入り混じった無頼派の一面もある文学者だと認識していたが。

つまり認識という言葉を使っている時点でそこまで太宰治という文学者には執着していなかったが、少し見方を変えるべきなのかとも思う。というより自分の見方を変えたほうが楽なんだろうと思う。すぐれた文学、文章というのは人の魂を救う言葉なんだ。

という極論にも似た瞬間的な衝動で、宗教的な崇拝心にも近い単体への固執は好きではないのだけれども、

今の自分にとってはその方が良い、これからはそのほうがよいのだろう。

 

それともう一つ。カルチベートするではなく、カルチベートされるという受動態を使っている辺りにも言及したいことがある。

 

文理

 最近本当に頭を悩ませている。小学生までは算数は得意だったが、中学3年で数学の点数が落ちたことを考えると理系向きの頭ではなかったのかもしれない。いやむしろそれより問題なのはなぜエジソンに興味を失ったのか、だ。理由は明白。明晰に、いやになるほどわかりきってしまっている。それは自分が文学という世界にどっぷりはまってしまったからだ。文学という世界のあまりの壮大さに完全に飲み込まれてしまった。というのは後からのいいわけであって。元々は押し付けられた感性の強要からすべては始まった。これが元凶のもとでもあり、チャーチル首相の言うところの私の中の狂気だ。

 今気付いたが、自分の文章にスペースを入れることを覚えた。これが自分がこれを文章作成する際の固有名詞があるのだろうがどうでもいいわけだ。どうでもいいという感情が多すぎる。いや、というよりどうでもいいと自分の価値観で判断している事をやらざるを得ない状況に追い込まれている。あえてそれが何かは書きたくもない。いや書きたくもないというと。

 会話が得意だ。客観的に評価されている。やはり人間は得意なことに夢中になるのだろう。でもそんなことはいっていられない。という自己啓発的な生活スタイルは直に崩壊する。今だって会話をしながら文章を書いているわけだ。

 圧倒的に筆力が劣っている。もちろん自己研鑽をしていなせいでもあるわけだが。とりあえず答えは出ていない。日記にも雑記にもなっていない。

 こういう文章を読み返すと病んでるな、調子悪いんだなという感想になるだろう。

 

 

単語いろいろ

 

スペキュレイティブ・フィクション

スペキュレイティブ・フィクション (Speculative Fiction) とは、さまざまな点で現実世界と異なった世界を推測、追求して執筆された小説などの作品を指す語。フィクションの複数のジャンルにまたがって使用される。発生当初は、「サイエンス・フィクションは大衆的で浅薄である」という偏見に対抗する意味も込めて、空想科学小説に哲学的要素を持ち込んだものを指していたため、日本語では思弁小説(しべんしょうせつ)、思弁的小説と訳された。

 

 

フーリエ変換

数学においてフーリエ変換フーリエへんかん、は、実数実変数の複素または実数値函数を別の同種の函数に写す変換である。変換後の函数はもとの函数に含まれる周波数を記述し、しばしばもとの函数の周波数領域表現 (frequency domain representation) と呼ばれる。

これは、

演奏中の音楽を聴いてそれをコードに書き出す

というようなことと同様な思想である。

 

 ●スペクトログラム

 スペクトログラム(英: Spectrogram)とは、複合信号を窓関数に通して、周波数スペクトルを計算した結果を指す。3次元のグラフ(時間、周波数、信号成分の強さ)で表される。 スペクトログラムは声紋の鑑定、動物の鳴き声の分析、音楽、ソナー/レーダー、音声処理などに使われている。スペクトログラムを声紋と呼ぶこともある。スペクトログラムを生成する機器をソノグラフ(sonograph)という。

 

 

 ●ポリフォニー【polyphony]

① 各声部がそれぞれ平等の重要性をもち,各々の水平的な旋律線を重視しながら,相互に和声的関連をもって重ねられる音楽の形態。多旋律の同時的な絡み合いを本領とする。一〇~一七世紀の西洋音楽の主要な形態であった。 ② ミハイル=バフチンの文芸批評理論の用語。独語(モノローグ)に対して 対話(ディアローグ)を強調するテクスト論の言葉。対話原理。

犯罪

拘留は、刑罰の一種です。

懲役刑が1か月以上の間身柄拘束をする刑罰であるのに対して、拘留刑は30日未満(最長29日)の間身柄拘束をする刑罰です。
刑罰ですから、判決で拘留刑が言い渡されて、確定してから拘留されることになります。

勾留は、刑罰ではありません。
裁判で判決が出て確定するまでの間、被疑者、被告人が逃亡したり、証拠隠滅をしたりしないように、身柄拘束しておくことをいいます。
ですから、勾留は判決が出る前に行われる身柄拘束です。
被疑者段階の勾留は20日まで(例外的に25日間勾留できる場合もあります)ですが、起訴されて被告人となった後の勾留は、1か月ごと(最初は2か月で、以降1か月ごと)に何回でも更新できます。
判決が確定するまで1年でも2年でも勾留されている被告人はいます。

 

起訴とは「訴えを裁判所に提起する」ということです。

検察官が原告の立場で裁判所に訴え(起訴状)の犯罪事実の内容について審理を求めることで、
起訴する権限は検察官のみが有しています。

検察官は、裁判官が認めた容疑者の勾留期間が終わるまでの間(最大20日間)に、
容疑者を裁判にかけるか(起訴)どうかを決めます。

 

そこで、検察官が、以下の3つの場合は、起訴しないこと(嫌疑不十分、罪とならず、起訴猶予)もできます。

(1)被疑事件が罪とならないとき、事件について証拠が不十分であるとき

(2)起訴するための法律上の条件を満たさないとき(親告罪の告訴の欠如など)

(3)犯罪事実は一応認められるが、犯人の性格、年齢および境遇、犯罪の軽重および情状ならびに
犯罪後の情況によって訴追を必要としないとき

また、(3)の場合は、起訴猶予といいます。

起訴猶予とは被疑事件について、検察官が、犯罪は成立し、起訴するための法律上の条件も
一応満たしているものの、公益上起訴する必要はないとして、起訴しないことをいい、不起訴処分の一種です。

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哲学史①

哲学史の言葉の前半の哲学とはなんであるかというに、特殊の科学が存在のある領域を対象とするのに対して、「存在である限りの存在」を全般的に扱う科学、すなわち存在論ontologiaに他ならない。

個々の特殊専門科学が主として実際の目的に奉仕する経験emperia、技術techne,から出発するのに対し、哲学は知恵sophia、または認識epistemeとして知ること自体のために知ろうとする絶対知愛philosopfhiaに対応するものである。

「利を忘れずしては真の利を得ず」とか「国を忘るる学問に非ずば、真に国を利する能わず」とかの逆説の流れは

利用価値の高い応用化学→理論科学→いわば哲学による理論化を経て初めてその歪められない真理によって規制されたものであるの流れ。

アリストテレス形而上学」の冒頭第一巻に試みた最初の哲学史というべきものは、のちに続く、形而上学体系形成に不可欠の導入であるとともに、彼の体系理論の特性に即して試みた学説展開の追及であるといえる。

出来事Geschehen→Geschichten

出来事の記述Historie

歴史は物質とか生物の自然の実態的な弁証法的展開に関して成立するもの。

問題はこの各領域のいずれのものが実態的変化の主題となるかに従って、歴史構造は極めて異なった変容を示すので、これが弁証法論理が「存在の論理」として各存在領域に一義的に妥当せず、ただ類似的に妥当するといわれる所以。

経済史に於いて、封建的生産様式は資本主義のもとにその痕跡を残し得ても決して本来の意味で残存しうる訳ではなく、本質的に封建主義と資本主義は両立せず、必ず前者が滅失することによって後者が定立する不倶戴天のものである。

これに反して精神史の事柄に移ると発展のおける連続性は非常に重要な役割を演ずるようになり、過去の定立は常に現在の総合の中に伝統として本来的に残存する

伝統はむしろ基底fundamentumとして、進歩的なものがそれへの反動reactioとして基底されるような主軸的な役割を演ずる。

 

たとえば、自然科学、ことに物理学においてニュートン力学相対性理論の出発点であり、その中に包括されるので新理論は過去の理論を無駄にせず、これを中に包括する積集的形態をとるのである。

 

紀元前7世紀イオニア学ーーー世界初の哲学

紀元前6世紀タレスーー万物の本源は水、哲学の祖。

気象学に通じておりミスが空中にも無機的自然に偏在しており、最も変化に富んでいることから言ったと解される。

自然を偶性的な様態に対する本質的な基体、減少に対する実態といった存在論的な概念によって、いわば物理的に説明を始めた点で哲学の祖。

ギリシャ人は自ら運動するものを生命と考えた。

 

失敗をバッドエンドにしたくはない

 つまるところ僕は何事もものすごく、それは他人から見たらあからさまといっていいほど、物事を冗長にこなすべきだと思った。コーヒーポットにオレンジペコのティーポッドを一つ。これをいつもなら1歳になる娘にやらせているわけだが。その姿は実に愛らしい。子供の目は常に歓喜に満ちていて、それはつまりこの世界はすばらしいものが一杯あふれていると心から信じており、実際にその瞬間瞬間、娘は愛情のある目配せや人のぬくもりをもらい、自分はというと玩具を触って遊び、それを周りの人に鑑賞してもらい拍手喝采を受けている。しかし今日は娘がいないので、僕はティーポッドをひとつまみ入れるのも娘の速度よりも遅く入れることに成功した。とここにきて僕はすでにミスを犯していることに気づいてしまった。その速度を遅らせたのは僕の娘のことを考える思考の時間であったのだ。思考。ああ。僕の小さな試みはまたしても失敗した。しかしこれをバッドエンドにしたくはない。時間もないから。新たな賽は投げられ続けているのだから。